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箆柄暦『十一月の沖縄』2022 志田房子

2022.11.01
  • インタビュー
箆柄暦『十一月の沖縄』2022 志田房子

《Piratsuka Special 》

志田房子(琉球舞踊家・人間国宝)
~多くの師から教わった芸を積み重ねて踊り続ける~

2021年秋、琉球舞踊の分野では初となる重要無形文化財保持者(人間国宝)の一人に認定された志田房子。幼少期から踊りを始め、芸歴80年を超えた今も現役で舞台に立ち、舞踊を通じて琉球芸能の素晴らしさを国内外に伝え続けている。見る者を惹きつけずにはおかないその踊りの魅力と、活動の原点にある沖縄への思いについて聞いた。

志田房子が琉球舞踊を始めたのは、数えで3歳のとき。踊り好きな母に連れられ、当時の沖縄では誰もが知る著名な舞踊家、玉城盛重(たまぐすく・せいじゅう)の門を叩いたのが始まりだった。房子の資質を見抜いた盛重は彼女を弟子とし、琉球舞踊の基礎を徹底的に教え込んだ。だが、房子が師事してわずか数年後、盛重は沖縄戦で命を落とす。房子自身も戦中は沖縄本島北部のやんばるに疎開し、踊るどころか「今日も弾が来ませんように」と祈る生活が続いた。だからこそ終戦後、人前で踊りを披露できるようになり、満場の拍手を浴びたときの感動は、今も忘れられないという。

「物資も娯楽もない時代ですから、舞台はドラム缶の上にベニヤ板をひいた仮設のものでしたが、その上で私が踊ったら、見ている方が喜んで、わーっと拍手してくださるんですね。それが子供ながらにとても嬉しくて、もっと頑張ろうと思いました。あのときの拍手が、今日まで私を後押ししてくれたのだと思います」

そして房子はわずか9歳にして、琉球政府の芸能審査会で資格証明書を取得。本格的に舞踊家として活動を始めるとともに、仲井真盛良(なかいま・せいりょう)、田島清郷(たじま・せいごう)、玉城盛義(たまぐすく・せいぎ)ら名だたる舞踊家に教えを請い、それぞれが得意とする演目を会得していった。当時は琉球舞踊界に会派や流派がなく、複数の師匠に師事することができた時代。のちに房子は自身の流派を「重踊流(ちょうようりゅう)」と名付けるが、そこには「琉球舞踊は誰か一人のものではなく、沖縄の人みんなの財産であり文化。多くの先生から教わった芸を積み重ねて踊り続ける」との思いが込められている。

「もともと琉球舞踊は王朝の芸能なので、流派というものは存在しなかったんです。それが戦後しばらくして、能や日本舞踊などヤマトの芸能にならう形で、琉球舞踊の世界でも流派や会派が立ち上がってきて。私自身はずっと『琉球舞踊に流派はない』という考えでしたが、しだいに周りから『志田さんは何流ですか』とか、『弟子がいるのに家元じゃないんですか』と聞かれることが多くなって、これはもう(自分で家元を)名乗るしかないかな、と。名前を決めるにあたっては『志田流』でいいのでは?という意見もありましたが、それは私の気持ちの中ではどうしても違っていまして。私の踊りは3歳のときからずっと、いろいろな先生方に教わったものを積み重ねてきて今があるので、その思いを込めて『重踊流』という名前にしました」

そうして確立された房子の踊りは、「琉球舞踊=格式張った伝統芸能」という先入観を軽やかに払拭する圧倒的な所作の美しさと、主人公や踊り手の心情を細やかに、かつドラマティックに伝える臨場感にあふれている。先達から学んだ伝統は大切に受け継ぎつつ、型にはまらぬ深い表現力で観客を魅了する、その踊りの背景にあるものを、房子はこう語る。

「古典舞踊は内面の感情を抑えて踊ることが特徴的ですが、私は歌詞や節(メロディ)に心を惹かれたとき、それらと素直に向き合って、作品に相応しい表現を考えながら演じてみたんです。そうしたらお客さんが涙してくださるようになって。そこから自分の踊りができあがっていったように思います」

また、房子は古典舞踊を継承するだけでなく、創作にも精力的に取り組み、これまでに100作を超えるオリジナル作品(歌詞と振付)を生み出してきた。近年は作曲も自ら手がけるそうだが、その原点はプロの舞踊家として活動を始めた直後、10歳頃にまで遡るという。

「当時は米軍から呼ばれて踊る機会が多かったのですが、何度も呼ばれるうち、子供心に『毎回同じ踊りでは悪いな』と思うようになりまして。それで(既存の)民謡に合わせて、自分で振付を考えて踊るようになったのが(創作を始めた)きっかけです。テンポのいいエイサー曲は、特に外国の方に受けますし。中学生になると、すでにある歌詞の内容を理解しようとして苦労するより、自分で書くほうが早いと思って、歌詞も自分で作るようになりました。舞踊の歌詞は八・八・八・六(サンパチロク)の琉歌形式ですが、高校生のときは琉歌がお好きな校長先生に頼まれて、琉歌のアドバイスをしていたこともあります(笑)」

その後10代から20代にかけて、房子は沖縄でアイドル並みの人気を博した。地元雑誌の表紙を飾ったり、ブロマイドが販売されたり、デパートの広告で着物のモデルを務めたこともあったという。そして30代に入り、結婚を機に東京に転居。最初はしばらく舞踊から離れ、子育てに専念するつもりだったが、周囲の人から「志田さん、日本語がお上手ね」と言われ、「沖縄は、東京ではまだこの程度しか知られていないのか」と愕然としたという。

「でも私は、それを差別とは思いませんでした。当時は本土復帰の直前で、沖縄に行くにはパスポートが要るし飛行機代も高い。皆さんが沖縄を知らないのも仕方ない。じゃあ、そんな中で私が(沖縄を知ってもらうために)できることは何か?と考えたら、踊りしかないなと。私が実際に紅型を纏い、『沖縄にはこんなに美しい芸能がありますよ』と見せるのが一番早いと思って、子どもの幼稚園行事などがあるたび、琉球舞踊を披露するようになりました」

そこからは東京を中心に、沖縄や海外でも積極的に公演を展開。文化庁芸術祭芸術祭賞や芸術選奨文部大臣賞、沖縄県文化功労者などさまざまな賞を受け、東京藝術大学や、くらしき作陽大学で非常勤講師を務めたほか、後進の指導にも尽力し、自身の娘・志田真木をはじめ、多数の舞踊家を育ててきた。それらの功績が認められ、2021年秋には琉球舞踊で初の人間国宝の一人に認定された。房子は「ここまで来るのは大変だったけれど、頑張ってきてよかった。この認定がきっかけで、沖縄や琉球芸能に興味を持ってくださる方が一人でも増えれば嬉しい」と喜ぶ。

来る12月4日(日)には、人間国宝認定と沖縄復帰50周年を記念して、国立劇場おきなわで「志田房子の会」を開く。復帰直前に上京し、東京で一人「沖縄を知ってもらう活動」を続けてきた房子にとって、復帰50年の節目は「とても感慨深い」という。また、戦争体験者として現在のウクライナ情勢に心を痛める房子は、この舞台に平和を願う気持ちや、コロナの収束を願う気持ちも込めるつもりだ。

「私は幸いなことに、あの戦争から逃れて生き延びて、踊り一筋に80年間過ごしてまいりました。今、私が踊っていられるのは、日本が平和だからです。戦争中は、とても踊っていられるような状況ではありませんでした。私はそういう経験をしているので、舞台に立つときはいつも『世界中から戦争がなくなって、平和であってほしい』と願っています。あの沖縄戦を生き残った者の務めとして、戦禍を超えて今まで継承されてきた琉球舞踊を、これからもより多くの方に見ていただけたらと思います」

当日は重踊流に加えて他流派の舞踊家も賛助出演し、房子の創作舞踊を中心に、多彩な演目を披露する。名実ともに最高峰の琉球舞踊を、この機会にぜひご覧いただければと思う。(取材&文・高橋久未子/撮影・溝嶋慶)

志田房子(しだ・ふさこ)

1937年、那覇市生まれ。幼少より玉城盛重に師事し、師亡き後は多数の名だたる舞踊家に教えを受ける。9歳のとき沖縄民政府主催の芸能審査会で資格証明書を取得、舞踊家として本格的に活動を開始。68年から東京に拠点を移す。数々の舞台活動の他、琉球舞踊重踊流 宗家として後進の育成に取り組んでいる。

重踊流オフィシャルサイト http://choyoryu.com/

[Stage info]
沖縄復帰50周年記念 重要無形文化財保持者(人間国宝)認定記念
琉球舞踊 志田房子の会

日時:2022/12/4(日)開場16:30/開演17:00
会場:国立劇場おきなわ大劇場(浦添市)
料金:一般前売7000円/当日8000円(2F席購入の学生は当日4000円返金・要学生証)、イベント割前売5600円(11/21よりイープラスで発売、利用条件としてワクチン3回以上接種または陰性証明が必要)
問合せ:沖縄タイムス社読者局文化事業本部 TEL.098-860-3588

イープラスイベント割チケット販売ページ
https://eplus.jp/sf/detail/3741100001